2011年3月11日の大地震でSNSが社会インフラとして機能していることは明白になった。ミクシー、ツイッター、フェイスブックなどを活用した安否確認から必要物資の依頼まで様々な情報のやり取りがネット上で行われ、それが機能した。必要な情報が必要な人のところへ。必要なモノが必要としている人のところへ届くことができた。リアルに対面で行われていたコミュニケーションがSNSというネットワークに劇的に置き換わった瞬間だったようにも思われる。コミュニケーションが対面からネット上で補完され、置き換わることで、世の中の動きも変わった。

 

それはまるで自動車が発明され、普及し、郊外のショッピングセンターが繁栄したように。テレビ・洗濯機・掃除機が発明され、家事時間から開放された主婦がその余暇を楽しみ始めた時のように。

 

一つの動きが変わるとその周辺の動きも大きく変わる。これまでメディアはマスメディアと呼ばれ、大衆の媒体だった。多くの人に向けて、1対多数の情報発信が行われてきた。でも、現在はSNSの普及を通じてその形がかわりつつある。1対小数、その小数の中の1人からまた小数。静まった池に小さな石を投げ入れると波紋がゆっくり広がるように、一つの情報はゆっくり大きく広がるようになっていった。

 

これまでのマスメディアが行なってきたコミュニケーションの理論は機能しなくなりつつある。マスメディア側の人間も認識しているのは、流行は作られるものではなく見つけるものだと思い始めている。これまで「イノベーター」や「アーリーアダプター」という人たちがS字曲線の立ち上がりの部分で情報を広めて流行は作られると学問の世界では言われてきた。これまでは巨大なS字曲線が一つ立ち上がることを流行といってきた。現在はこのS字曲線は無数に存在している。

 

その人間が属するショーシャルネットワークの中でそれぞれのS字曲線:流行が存在している。その流行は常に一般的なものとは言い難いし、それがマスで受けるものとも言い難い。ただし、その流行はマスメディア側が意図的に仕掛けたものではなく、自然発生的にネットワークで生まれたものだ。その流行をマスメディアが拾い上げて紹介する。という流れに大きく流行の流れは変わりつつある。

 

マーケティングを行う側にとっては、より精緻でややこしい世の中になりつつある。薩摩示現流のようにチェストーと一刀両断するような、一撃必殺のマーケティングは存在しなくなった。常に日々情報を丹念に拾い上げ、自らの感性を磨きあげ、予兆を拾い上げるようなマーケティングに変わってきている。大切なのは予兆を読む、感性・感覚が大切になる。ビッグデータのデータ異常を読むような感性とは違う、より右脳的で直感的な感性が求められるようになってきている。それを鍛えるためには日々、感動するような感性を磨きつづけることなのではないかと思う。