あの人は意識が高く素晴らしい。という言葉を聞いたことがあるだろうか?あるはずだ。でも、その時に疑問を感じたことはないだろうか?そもそも高いとか低いとか何を基準に見ているのか?と。私は社会市民としてではなく、「個人的に」意識が高いとか低いとかの話の類が苦手だ。何故ならば前述のとおり、意識の高い低いの基準値が不明確なものに対して勝手にラベリングをするからだ。

ラベリングとは社会学の分野のひとつで勝手に物事や人への評価を固定的に決めつけるレッテル貼りのことを言う。このラベリングはしばし、スケープゴートとしても同時に使われているように思われます。ある組織文化を維持するために、そのカタルシスとしてスケープゴートを見つけ、ラベリングし、標的にします。例えば

A社は中小業者で数人で運営されている。その数人の中には古参メンバーが存在する。創業メンバーは自らの立ち位置や運営方針を阻害されないために、新人が入るたびにラベリングし、スケープゴートとして定めて攻撃する。スケープゴートを出すことで、古参メンバーの意思統一は強固なものになり、より強い推進力になる。このときラベリングに意識が高いとか低いとかを持ち出すことで、スケープゴートはラベリングを剥がすことができなくなる。何故ならばこの意識が高いとか低いとかは主観であり、貼る側の都合で決まるからだ。

意識が高いとか低いとかいうのは主観であり、客観性というものは全く存在しない。そもそも意識を数値化することなんて不可能であり、それを評価に組み込むことはナンセンスの極みだとおもう。この国土に現在以上の人口が存在したことが無いほど、現在の日本は成長している。この成長した社会に必要なのは多様性だと思う。他者を認め、どのような意見も尊重し、どのような意見も「アリ」だと思うこと。そうして、自分にとってそれがアリか無いかは自分で決めることが必要なのではないかと思う。